ようやく実現できた 父母の引き揚げの足跡確認の旅(前編)
母の遺言 戦争をしてはいけない
1933年(昭和8年)、私の母は新潟から中国へ渡り、安東(アントン/現・丹東/タントン)に住む日本人の家庭へ嫁ぎました。
そこで13年暮らし、私の兄と姉が生まれました。
1945年敗戦後、一年間余り待ったのち、ようやく一家は日本へ引き揚げることとなりました。
1946年(昭和21年)10月2日、一家7人が長年住んだ安東を出発し、野宿したり、収容所に泊まったり、
列車に乗ったり、中国人の民家に泊めてもらったりしながら葫蘆島(コロとう)に辿り着き、博多港に上陸でき、新潟県下田村に辿り着いたのは10月28日。
こうして日本に帰れたのに食べるものも着るものも職もない状態。
母は実家に帰って私を何とか出産したものの、実家もあまりにも貧しくて引き揚げてきた家族に何も分けてあげられない状況。
婚家にも実家にも居られなくなった母は、大雪の降る12月30日、私を背負い農家に再婚。
その家の釜に白いご飯が炊いてあるのを見て、「この冬を越せる」と思ったそうです。
「3日食べないでは我慢できないし、生きていかれないのだよ」と母は語ってくれました。
置いてきてしまい育てることのできなかった姉や兄たち。とっても尊敬していた夫。
戦後の引き揚げの人たちは、皆このような大変な苦労をして、何とか生き延びてきたのでしょう。
私の心の救いは、母が中国での生活をまるで子守唄のように、生き生きと語ってくれることでした。
再婚先での慣れない田畑の重労働と、暗い人間関係の中で、私に語らなければどうにもやりきれなかったのでしょう。
心で語ってくれたことは、子どもの心にちゃんと刻まれるものだと思います。母の語りの最後の嘆息まじりの言葉です。
「戦争だけはしてはいけないよ。戦争は人の心をズタズタに引き裂くからね」
父の形見の引き揚げ日誌
1995年、「ずいぶん捜しました」と生き別れていた兄から突然電話があり、初めて会うことができました。
父は1900年(明治33年)に生まれ、1983年(昭和58年)に83歳で亡くなったこと。
兄は私に形見として、父の「引き揚げ日誌」と写真をくれたのでした。わら半紙で綴じたようなノートに引き揚げの記録、
日本での親戚、友人の住所、日本に引き揚げた時の親戚や村の人たちにいただいた品々の1つ1つが、下さった名前と共に克明に記されていました。
例えば、茶筒1ケ、電球2ケ、衣類5点、たまご5ケ、柴木8把、白米2升、りんご5ケ、掛フトン1枚、屑フトン1枚、等。
戦後、どの家も貧しくて、どんなものでも貴重でした。
私は父の、すっかり茶色く変色した「引き揚げ日誌」を、命の大切さを忘れない形見として大事にしてきました。
戦争よりも平和を選ぶこと、平和のためにできることを実践していくこと。
ついに実現 引き揚げの港・葫蘆島へ
父母が引き揚げてきた足跡を訪ねたいと、長年月抱き続けてきた願いが叶い、
今回の旅(日本中国友好協会東京都連合会企画)に参加、ついに葫蘆島(コロとう)へ来ることが出来ました。
大連(たいれん)から高速鉄道で葫蘆島市北駅へ2時間。
先ずは、葫蘆島市人民政府対外交流協会に表敬訪問です。立派な会議室で歓迎を受け、
日本中国友好協会の前山理事長がお礼の挨拶と今回の訪問の目的を話します。
私も「家族が葫蘆島から引き揚げることができたのは、たくさんの中国の人たちにお世話になったからです」とお礼の気持ちをこめて、
父の引き揚げ日誌のコピーを資料として差し出し、短いスピーチをさせていただきました。
その後、バスで葫蘆島に建つ、引き揚げ記念碑へ向かいます。
「1051047人 1946~1948 日本僑俘遣返之地」葫蘆島市人民政府建立
再び戦争の悲惨さが起こらないようにと碑の裏には中国語と日本語で平和の願いが書かれていました。
戦後、日本中国友好の原点ともいえる葫蘆島。
この碑の前で、「よく記念碑を建てて下さいました。ありがとうございます」と感謝し、
「ようやく葫蘆島に辿り着いた。やっと日本に帰れる」と安堵した父母の気持ちと重なり、涙があふれてきました。
葫蘆島馬杖房駅の遺跡。ここは引き揚げで到着した最終駅です。ここから港までまた歩き続けたのです。
元収容所跡はオンドルの煙突が屋根に立ち、今にも崩れ落ちそう。ここも間もなく壊されてマンションが建つとのこと。
港に辿り着いたものの船に乗る前に命が尽きてしまった24万人もの方々を、穴を掘り日本の方向を向いて埋葬したという茨山(いばらやま)。
ふもとにたくさんマンションが建ち、今も次々と造成中で、もう茨山に登ることはできず、ただ合掌するのみでした。
---後編は次号へ続く---(松浦幸子)
「無言館」二人の館主 初対談
今までの歩み、これからの歩み
長野県上田市に戦没画学生慰霊美術館を開設してから27年。館主の窪島誠一郎さんも、83歳になります。
戦没画学生の絵も80年。絵の傷みもひどくなっています。無言館のこれからを心配していました。
エッセイ、翻訳、作詞、ナレーションなどで大活躍の内田也哉子(うちだ・ややこ)さんが2024年6月から共同館主になって下さったとの嬉しいニュース。
11月3日に、お二方の初対談と、窪島誠一郎さんの詩「海よ哭(な)け」がCDになり、ライブコンサートも同時に開催されました。
会場の上田市のサントミューゼに各地からの参加者が大勢、期待いっぱいの表情で開場を待っていました。
「そろそろ人の役に立つ仕事をみつけてくれるといいんだけど」は、2018年に亡くなられた母(樹木希林)の一人娘に託した希望だったとのこと。
小さい頃からアートが好きだったという内田也哉子さんは「どんなことでも教えて欲しいです。
画学生の絵を訪ねて歩き、初めて絵に出会った時、どんな気持ちでしたか。」と窪島さんに素直に問いかけます。
「3年8カ月、全国各地の遺族を訪ね歩いたが、未熟な絵ばかりだった。
戦中、学生は繰り上げ卒業で絵を描く時間もないまま戦地に送られていったから。
でも、段々と絵が集まってきて僕の寝ている6畳間に二重三重に立てかけられた時、
夜中に彼らの絵が『描きたい、描きたい』『生きて、もっと描きたい』とオーケストラになって聞こえてくるんだ。
絵が持っている不思議な生命力に突き動かされて美術館をつくろうと決意したんだ。
でもつくって良かったのか、心は振り子のように揺れる」
真っ直ぐに問いかけてくる娘に語るように、窪島さんの話は尽きることがありません。
「無言館に人が訪ねてくれること、そしてまた他の人に伝えていってくれる。そんな仕事をしていきたい。
これからも聞きたいことを窪島さんにいっぱい投げるので、打ち返して下さい。」と内田也哉子さん。
「あなたを共同館主に選んで良かったよ」と窪島さんはニッコリ。人間味のある、深い味わいの初対談。
きっと、次世代に希望を手渡していける。帰り道、千曲川の土手を歩きながら、心が弾みました。
(松浦幸子)
能登の苦しみに、希望のニュース
10月10日、平和をつくる女性文化の担い手たちを応援する「女性文化賞」に、珠洲市の坂本菜の花さんが選ばれました。
「他者の痛みを自分の痛み」として受け止める姿勢、「意見が違う人も排除しない大切さを知っていること」などが評価されました。
「菜の花の沖縄日記」や雑誌「We」での連載エッセイでの発信を続け、また実家の民宿が地震と豪雨災害に遭う中で地域復興の活動を行っています。
今回の賞金も、「やり場のない思いを抱えている地域の人々のためにできることを考えたい」という。
今年1月の地震の時「クッキングハウスの皆さんから送っていただいたお見舞いも、公費解体が進まないから重機を買う資金にします」と電話で話してくれた。
精一杯の頑張りに見てくれている人たちがいたのです。
(松浦幸子)
文化座「紙ノ旗」を観劇して
田端の文化座アトリエでの公演。俳優さんたちが手を伸ばせば届くような位置で演じていました。
一人一人の声や熱が直に伝わり、まるで自分が、舞台の中で演じられている地方議会の世界にいるような、
また逆に舞台の演者達が、こちらの世界にやってきて、私たちの言葉にできない思いを代弁してくれているかのようでした。
育児休暇について問題提起をした若い新人の女性議員に対しての反応は様々。
少数派として応援し続ける市民派の男性議員や、これをきっかけに昔の志を思い出し、
出世の道を棒に振ることになった男性議員に胸が熱くなりました。
市役所職員のコソコソと語り合う本音にも共感。
一方で、慣例を重んじて、ふんぞり返った感じの保守系の男性議員、男社会を生き抜く術を伝授しても
本質は変える気のない赤いスーツを着た保守系の女性議員に反発を感じながらも、権力の上でおごる人間をユーモラスに風刺する逞しさも感じました。
又、人間の勇敢な姿と共に愚かさをも見つめていく、おおらかな人間愛のようなものを感じました。
主張が異なると反感や嫌悪感を抱き、行き過ぎて大きな争いになることは今の時代にも私たちが経験していることです。
変えていく勇気、逞しいユーモア精神を私も人との繋がりの中で育てていきたいと思いました。
(井出歩)
スタッフも気持ちをひとつに学び合っています
10月31日、非常勤スタッフ、ボランティアの皆さんと一緒に研修会を開きました。
スタッフみんなで日頃の活動を振り返り、原点である理念を確認し合います。
12自治体から67名、20代から80代までのメンバーが通っています。
私たちの仕事は、制度の枠に当てはまらなくても、メンバーの困りごとや不安、症状の揺れに付き合いリカバリーを応援すること。
クッキングハウスが更に質の高い充実した場になるように、一緒に考え、共有できる機会を持つことはとても大切で必要なことです。
スタッフたちからも、日頃の悩みや苦労していることを出し合いました。
「忙しくてゆっくり話が聴けなかった、良かったのかな?」
「仕事の手が足りなくて困っていると、メンバーができることをやってくれて、助けてくれて嬉しかった」
「食器洗いでも、メンバーが一人でやるのは苦しくなるから、メンバーとスタッフがペアでやることが大切では?」
と現場を通して生の声が交換されました。
松浦さんから基本的な考えや理念の再確認はもちろんのこと、安心感のプレゼントの大切さや、
よく聴いて、一緒に考え、必要時は行動も共にすること。
そして一人ひとり違うのだから、個人としての尊厳を大切にし、寄り添っていくことは常勤でも非常勤でもボランティアでも同じ。
出勤したら、その日は精一杯スタッフとしての誇りを持って接してほしいと、メンバーへの大切な関わり方を学びました。
時には立ち止まり、振り返って、一緒に考えていくことや学び合うことの大切さを思った研修会になりました。
(田村陽子)
祝島ネット21 東京交流会 in クッキングハウス
9月20日、祝島のことを思い、祝島ネット21の会員になっている方々が初めてのクッキングハウスを訪ねて下さり、語り合いました。
民宿くにひろを営む國弘優子さんが会員さんへの心配りをしながら初顔合わせの皆を繋げてくれました。
届いたひじきをサラダに、びわ茶も冷やしておいしく飲んでいただきました。ティールームからの手作りケーキも用意。
斉藤さんと会田さんの共同制作の看板も、祝島の鯛が阿吽の呼吸で飛び跳ねています。
メンバー達も参加し、笠木透さんがよく歌ってくれた「豊かな青い海」を歌いました。
魚と野菜と いい友だちがおれば
ほかに何がいるのだろう
私の この人生
「クッキングハウスのランチタイムは豊かな気持ちになれました。みんなが助け合って仕事している姿に感銘を受けました。
豊かな自然に囲まれた祝島を大切にしたい。原発のこと、直接ではなくても関わらなくては、と思いました。(松岡)」
「いろんな人と出会えてよかったです。皆さんが祝島に関わりがあるのにびっくり。
ランチ、語り合い、ティータイム、歌ったこと、豊かであったかい気持ちになりました。
よく、祝島周辺の自然を生物多様性の宝庫と言いますが、多様であること、みながそれぞれであって良いことが、心に深く感じられました。(遠藤)」
「普段は、学生たちに一方的にしゃべることばかりで、こんな形で語り合えることがありません。
祝島に関心を持ち、祝島を想う人たちとこうしてお話ができる機会を持てたことを、とてもうれしく思います。
またこうした機会があることを心から望みます。クッキングハウスも素敵な場所でした。(武田)」
(松浦幸子)