レポート メンタルヘルス市民講座<冬の巻>
冬から春への講座は毎回出会いがあり、心が弾んだ。
長野県松本からは武田いづみさん、山形村から神通川多恵子さんと仲間達が2回も来て一緒に学んで下さった。
愛知県や広島と遠方からの参加者も「来てよかった」と嬉しそう。
私がメンタルヘルスの大切さを語り、メンバー達が病気からのリカバリーの体験を語るのをじっと集中して聴いてくれた。
当事者研究入門は「自己病名」をつけるワーク。
処方箋には自分をほめてあげたいことを3つ書き、医者と患者になり、自分が書いたことをそのまま医者の役割になった人が伝える。
互いの心が元気になり、あたたかく満ち足りた場になっていく。
メンバーの中島暁子さんと会田慧さんが6回すべて出席の修了証とごほうびの本やベリーハッピークッキーを贈られて、実に嬉しそうな笑顔で松浦と記念撮影。
みんなの拍手に包まれた。
「何年か前に参加した時は状態が安定せず、統合失調症の幻聴・幻覚が邪魔して集中出来ない状態と眠いせいで、少ししか楽しくありませんでした。
今はだいぶ落ち着いて話を聴けるし、話の中で多少ですが理解できるのでわかりやすい講義で、楽しく学びが出来ました。
全6回参加して修了証とごほうびもいただけました。」と会田慧さん。
アンケートより
「メンバーのリカバリーのお話を直接聴けて、勉強になりました。
本やネットではいくらでも病気の症状は調べられますが、実際に経験した方の話を聴くと『人ごと』にはならないです。
うつ病は自分の病気なので学べてよかったです。ついつい頑張りすぎるので、ここまでというラインを決められること、そのラインを守れる実行力を身につけたいです。」
「制度は使わないと廃れてしまう。制度の内容を補足して下さるメンバーの皆さんの言葉や、松浦さんのコメントと共にスッと腑に落ちてくる不思議な時間となりました。」
「斉藤さんのオープン就労のお話はわかりやすくて、とてもよかったです。
斉藤さんのがんばりもあるのですが、まわりのサポートがきめ細やかで素晴らしいと思いました。
やはり病気の波や薬を飲んでいるというところでも、健常者と同じように、という訳にはいかないのが私達当事者のつらさです。
でも、まわりに病気のことを理解した上で、支えてくれる人さえいれば、もっとたくさんの当事者が働けるかもしれません。
私達だけの問題ではないのです。」
当事者委員の任期を終えて(調布市障害者総合計画策定委員会)
心のバリアフリーを
様々な障がいを抱える当事者の方、医療者の方、親の会、民生委員、施設等で当事者を支えて下さる方、教職員の方、多方面の方が集まって
調布の障害者総合計画について発言し、意見を出し合う委員会に2年に渡って参加させていただきました。
「この問題を取り入れて欲しい」「この問題は、どう計画の中に入れるのか」「この項目は、2つに分けた方が良い」や「今の現実にはこんな問題があります」と、
それぞれの立場から幅広い意見を聞く機会に出会いました。
こうやって調布の福祉は変わってきたんだなぁと私自身、病気になって40年以上経ちますが、過去を思い感じ入りました。
私も意見を求められ、クッキングハウスで生活していて感じることや、メンバーにアンケートさせてもらったりスタッフに相談したりしながら発言することが出来ました。
クッキングハウスのような居場所が大事なことや、相談支援について。
人生においては障がいがあっても、子育てをしたり、親を介護したりと様々なことがあることを伝えることができて良かったと思っています。
バリアフリーのまちづくりという項目の中で「心のバリアフリーの推進」という言葉が強く残りました。
様々な心身の特性や考え方を持つすべての人々が相互に理解を深めようとコミュニケーションをとり、支え合う社会。
何と平和な社会でしょう!!これからもまた学んでいく心がけを大事にしなくてはと思いました。
クッキングハウスでは、小さいお子さんとその親御さんもたくさんレストランやティールームに来て下さいます。
「いらっしゃいませ」と挨拶すること、いつもみんなでやっている明るく声を出すことが、精神障がいへの心のバリアフリーにつながるとも思いました。
みんなでお菓子を作って、手分けして納品することができる日々を大切に、大事に過ごしていきたいなぁと思いました。
(メンバー・石島彩子)
メンタルヘルス市民大学 第4回「絵との対話の可能性」
「丸木位里・丸木俊 沖縄戦の図 全14部」DVD上映会
丸木位里・俊は1945年8月6日に原爆が落とされてからすぐに駆けつけ、広島の惨状を見た。
それからずっと広島・長崎・ビキニ水爆実験と30年以上もかけて原爆の図全15部を完成。
更に水俣・南京大虐殺・アウシュヴィッツと、いのちの問題を描き続けた。
「原爆の図」は世界中を巡り、1967年には埼玉県東松山市都幾川のほとりに原爆の図丸木美術館を設立。常設展示するようになった。
たくさんの出会いがあって、沖縄戦の図の美術館が完成
「沖縄はどう考えても今度の戦争で一番大変なことがおこっとる。
原爆をかき、南京大虐殺をかき、アウシュヴィッツをかいたが、沖縄を描くことが一番戦争を描いたことになる」(丸木位里)
「戦争というものを、簡単に考えてはいけないのです。
一番大事なことがかくされて来た、このことを知り深く掘り下げて考えなければなりません」(丸木俊)
沖縄戦のことは「“かたち”に残しておかにゃあ いかん」と晩年の集大成として現地に滞在し、住民の語る戦争の心の傷に全身全霊を傾けて聴き、6年かけて絵として全14図を描いた。
戦争のむごさ、人々の悲しみ、“命どぅ宝”の叫びが聞こえてくるのだ。
針灸治療師として丸木俊さんの体の手当てを行っていた沖縄出身の佐喜眞道夫さん。
「沖縄戦の図を沖縄に置きたい」という位里さんの願いを聞き、沖縄の人々の心の緑陰の美術館にしたいと、美術館をつくるために奔走。
普天間基地になっていた、亀甲墓のある先祖の土地を一部取り戻し、1994年に佐喜眞美術館が完成したのだった。
写真家の本橋成一さんが、そんな2人の画家生活を撮り続けてきた。
沖縄の人々がたくさん2人の絵の仕事に参加している姿にも感動する。
沖縄の心を歌う
増田康記さんが、笠木透さんがつくった沖縄のうたを披露する。
「特攻花」「ペンペン草」「軟弱者」。「私の島」では元・大田昌秀知事が語ってくれた沖縄の人々の心である
チュニ クルサッテン ニンダリシガ 他人に傷つけられても 眠れるが
チュニ クルチュ ニンダラン 他人を傷つけたら 眠れない
を、皆で歌う。「命どぅ宝」の心が伝わってくる。
「小さな沖縄が長い間、アメリカと日本とたたかい続けることができたのは、琉球の音楽のおかげだと思う。
琉球音楽には精神のバネがあるでしょう」(丸木俊さんの語った言葉から/アートで平和をつくる 佐喜眞道夫 岩波ブックレットより)
ドキュメンタリー映画とうたのあと、たくさんのシェアリング。
お互いに気持ちを語り合えることが平和なのだと思う。
(松浦幸子)