毎年4月になると、石川県津幡町で「紅茶の時間」をもう30年近く続けている水野スウさんがやってきてくれる。今こそ、水野スウさんがメッセージを発信し続けている「いのみら通信」の名称の元々の由来、「いのちの未来に原発はいらない通信」を話していただきたいとお願いした。
スウさんは大きな地球のキルトを持ってきてくれた。著書“まわれかざぐるま”にこのキルトの物語が書かれている。「原発はいらない」と母親も子どももみんな一緒にキルトを作ったのだった。太古の時代から今の時代までの地球の歴史がひと針ひと針、すべての生命を愛しながら縫いこまれている。原発は、燃やしたあとの放射能のうんこ(・・・)が生命に、地球環境に長年月影響を与えてしまうのだと、わかりやすく話してくれる。「人に伝えていくために、クッキングハウスでSSTを学んだことが本当に役に立ちました。私メッセージで、誰かを責めるのではなく、自分の気持を語っていくことが、原発という複雑な問題を伝えていくのに、どんなに大事か気づいたのです。」とスウさん。まさにSSTを自身のコミュニケーションの有効な道具にして実践している。誰も責めていないから、安心して心開いて聴くことができる。
私達はいつの間にか、原発の安全神話をすりこまれている。「原発のことは心配。でも(・・)原発がない(・・)と(・)」というデモナイト自動思考になっている。この考え方を変えることができるだろうか。もっと柔軟な発想になるために、感性も理論も磨いていかなくては「感(・)と理(・)が大事」もキーワードだった。最後に「単語な感想」と、小さな折り紙に最も心に残ったことを一言書いて、集めて発表。いつもながらスウさんの発想は楽しい。
翌日の夜、4月22日(金)のハッピーアワーで、アンコール講演。小さい子ども達を連れたお母さん達も熱心に聞いてくれた。スウさんのうた「For
the first time in my Life」はささやくように、「今日の日ははじめて、風も空もちがってみえる。あなたと一緒で。」とうたってもらうと、いっぱいの愛をプレゼントされた、満たされた思いになってくる。
この日、クッキングハウスで会えて、スウさんの話を集中して聴けるのも、大震災のことを思うと奇跡に近いことなのだ。(松浦幸子)
スウさんから届いたブログより一部(今回の出前紅茶の話をまとめてくれています)
私の○(まる)い頭で理解した、原爆と原発の関係、原発の仕組み。
多くの人が、原発はこわいけれど、ないとやっていけない、と何重にも思い込まされて来た、その根深い仕組み。テレビや新聞からは、本当に知りたいいのちの側にたった情報が、得られない仕組みや、日本で自然エネルギーがなかなかふえない仕組みについても。
こういった仕組みを知ることで、「こわい、でも(原発)ないと」の呪縛から、ほんの少しでも自由になって、これまでと違う角度から原発のこと、考えてもらえますように、と祈りにも近いきもちで語る。
この「でもないとチェンジ」に必要なのは、「感」と「理」だと私は思ってる。
「感」は、不安や恐れ、怒りなどの感情、そして感性。
原発のどの場面にも、ヒバクシャがいること。差別のシステムの上に原発があること。プルトニウムの半減期24000年。50年近く原発を動かして来てて、放射能のウンコの最終処分地さえ未だ決まっていないこの国。それらの事実を知って、どのくらい想像力が働くかどうか。
「理」は、理性や道理や理論。仕組みを知ることだけでなく、多少は原発を巡る数字やデータ、世界での脱原発・自然エネルギーについて知ることも、また必要。でないとちょっとつっこまれただけで、「でもないと」にすぐ逆戻りしてしまうので。
↑(そのためのテキストブックが要るなら、田中優さんの「原発に頼らない社会へ(ランダムハウスジャパン)」が出たばかり。内容は、「ヤマダ電機で電機自動車を買おう」に、3・11以降のことを新たに書き加えたもので、その上、「ヤマダ−−」より安い1050円)
感と理、それを持った上で、次に大事な、伝え方。どれだけ、「私メッセージ」で伝えられるか。20数年前のように、いいか、悪いかで、敵対しても始まらない。
今、いのちの未来の大事な分岐点に立ってる。私もあなたも。東電の原発のあの現場に対して、自分じゃ何一つできなくても、未来に関わる一人になることは、誰にでもできる。自分がその一人になるんだって、自覚すれば。それを考えてもらうため、気づいてもらうための、今回の出前。
正直言って、12年前に中垣さんといっしょに「東海村であの日、何が起こったのか」という冊子(藤田ゆうこうさんの講義録)を出して以来、原発について語ることは本当にひさしぶりだった。
今回の出前をきっかけに私なりの25年間の表をつくってみたら、ちょうどその12,3年前に、私はクッキングハウスの松浦さんに出逢い、以来、SSTとよばれるクッキングハウスでのコミュニケーションの学びにどんどん魅かれていき、調布に通うようになったのだった。
10年あまりの時を経て、今また原発を語らなきゃならない今の状況はすごく悲しい、そしてくやしい。でもこの日のクッキングハウスで、満員のお客様やメンバーさんやスタッフさんの前で語りながら、この10年間のSSTの学びや、コミュニケーションの練習の場である「ともの時間」での気づきを、語りの中で生かしている私がいることにも気づいたんだ。
原発を語る時、相手を非難したり責めたりする「あなたメッセージ」だったら、本当に伝えたいことは伝わらない、心に届かない。だから、「私メッセージ」を、心して、心して。そう思った時、そうか、巡り巡って、これまで学んできたことにちゃんと深い意味があったんだ、と納得できた。
話の中で、66年前、長崎浦上の病院で、原爆の患者さんたちの治療に当たった秋月辰一郎医師の食事療法のことにも少しふれた。天然の塩と味噌と玄米、かぼちゃやわかめのお味噌汁、甘いものはさけること、とくに白砂糖はよくないこと。
この組あわせ、レストラン・クッキングハウスの毎日のメニューとおんなじだね。このつらい経験から、あらためて、日本の伝統的醸造発酵食品を使った食事のよさが見直されていくといいなあ、と思う。
〈旅・スペシャルレポート〉
笠木透さん、雑花塾と行く素晴しき朝鮮文化と歌の旅
大災害のあと、日本中が冷えきり経済活動も循環しなくなっている。こんな時だから、少しでも経済が回っていくのに協力したい。何よりも元気を出したいと、3泊4日ソウル限定に縮小した旅が実現した。仁川空港に着き、あさりうどん(洗面器のように大きい器に、あさりとカニとうどんが山盛り)をいただきながら、ガイドの金さん(女性)が話してくれたことが胸を打った。
「日本の大使館の前はいつも抗議行動が多いのに、3月11日以来は毎日、日本が早く復興しますようにと、祈りの行動でみんなが集まっていました。日本ではそのことが報道されていますか。」マスコミでは取り上げられないことを、この国に来たらわかった。本当にありがとう。韓国の人達が祈ってくれていたことがわかっただけで、この国のふところの深さを思うことができ、来てよかったと心から思った。
雨の中南山の安重根(アンジュングン)の記念館に。1909年、ハルピン駅で伊藤博文を暗殺し、処刑された人。朝鮮が日本の植民地になることに、命をかけて抵抗した人。母が「国のために闘ったのだから、毅然として死ぬように」と、絹の白いカタビラを縫って贈ったという。処刑になる10分前の写真は穏やかで、しかも気品に満ちている。
獄中で書いたという安重根の書が実にいい。「一日不読書口中生荊棘」。学ぶことを求め続けた青年のかわきが出ていて、しばらく書の前から動けなかった。安重根の「東洋平和論」は完成しなかったが、現在高い評価でみられているという。
〈パコダ公園へ〉
1919年3.1独立運動の発祥の地であるパコダ公園に行く。日本の植民地になることに反対し、学生や市民が非暴力で万歳を叫んで始まった運動のレリーフが、パコダ公園にある。非暴力の独立運動のルーツとして、キング牧師やインドのガンジーに大きな影響を与え、世界に広がっていった。
当時の日本はこの運動に大弾圧を加え、名前も奪い(創氏改名)、ハングル語を使うことを禁止、心の文化も奪っていき、徹底した植民地支配をすすめていった。
〈尹東柱の母校延世大学へ〉
1943年京都の同志社大学留学中、禁止されていた朝鮮語で詩を書いたことから投獄され、1945年2月福岡刑務所で27才の若い生涯を終えた詩人の尹(ユン)東柱(ドンジュ)。友人の預かっていた手作りの詩集「空と風と星と詩」が1948年に出版され、韓国の国民的詩人として愛されている。
今回の旅で最も嬉しかったのは、尹東柱の母校延世大学を訪ねることができたことだ。1938年から1941年まで過した当時の寄宿舎が記念館として残されている。れんがづくりの落ちついた建物。尹東柱の詩碑があり、ガイドの金さんにハングル語で読んでもらい、私が日本語訳を読ませてもらった。春の芽ぶきの木々の中から、尹東柱が詩を口ずさみながら歩いてくるような気がした。
〈旅仲間で笠木透・増田康記コンサート〉
最後の夜、レストランの庭で小さなコンサート。笠木透さんは、日本の植民地時代朝鮮の人達が抵抗の歌としてうたっていた歌を発掘紹介してきている。「故郷の春」「わが国の花」「他郷暮らし」「故郷を思う」など、すぐに口ずさめる、国を思う歌ばかり。故郷の野や山や川や花をうたいながら、解放と独立を願う思いがせつないほどに深くこめられている。隣の国の韓国。悲しい歴史のあやまちをきちんと償い、これからはもっともっと知り合って互いの文化を尊敬しあえるいい友達になっていきたい。充実した旅だった。(松浦幸子)