クッキングハウスからこんにちは No.138

目次(青字の記事を抜粋してあります)2011年6月13日発行

目次
巻頭言:いのちが輝く学びを求めて・目次…1、総会特集…2〜3、スウさんのピースウォーク・・・4〜5、被災地ボランティア…5、旅・レポート、うたづくり他…6〜7、マッシー心の健康講座・・・8、文化学習企画、イベント情報、各地からありがとう他・・・9〜12

〈総会特集〉

〈〜メンバーからの質問が活発だった総会〜〉

遠くは新潟県、石川県、長野県、四国の香川県など、全国各地からいつも応援してくださる会員や市民の皆様にたくさんお集まりいただき、クッキングスターは熱気に満ちて総会がスタートしました。議長団は、松浦さんと池田和子さん。お二人ともこの晴れの日に、きちんと盛装してお客様を迎えます。メンバーもスタッフも、ちょっとおしゃれをして臨みました。なんと、文化座の代表・佐々木愛さんも出席してくれました。
質疑応答は、メンバーが次々に手を上げます。「剰余金とはどういう意味ですか」「議案書の予算書・決算書の見方を教えてください」「自立支援法へ移行する際の収支シミュレーションは、もう出ているのですか」などなど。どの質問も、素直でありながら核心をついています。クッキングハウスの運営に、メンバー自身が自分たちのこととして関心を寄せ、将来を考えていることがよくわかり嬉しくなりました。
会計監査の内田敬子さんからは、「日々の活動をしながら、お金のこともしっかりやっている。そのことが信用につながります。ごくろうさまでした」と承認をいただきました。監事の増野肇先生からも、「監事は肝心なところを見ています。ハッピーアワーも美味しいし、頑張っていますね」とユーモアを交えたお話で、会場が和みました。
正会員・賛助会員・協力会員、多くの市民の皆様に支えられていることに感謝し、今年度もメンバーと共に頑張っていこうと思います。(クッキングハウス会事務局 田村陽子)

〜松崎運之助さん記念講演  ハッピーアワー〜

 「花も嵐も踏み越えて、今年こそはクッキングハウスに行きますよ。」と
賀状に下さった松崎運之助さん。本当に台風の近づく雨の総会となったが、
お母さんのヤエさんの晩年の絵を抱えてやってきて下さった。ひょうひょう
とした姿を見たときは、ほっとした。
 83名の満員の部屋。松崎運之助さんはお母さんの絵に守られているかの
ようにやさしく語りかけてくれた。涙と笑いとため息と、思わずあがる感動
の声。どんどん松崎さんの人生のドラマに引きこまれていく。
 中国の東北部・通貨から、子ども達を飢えで失う悲しみの中、この子だけは生きてほしいと、お腹の松崎運之助さんにひとすじの希望をたくして引き揚げてきたお母さん。
 長崎の街のドブ川に板を張り、バラック小屋で暮らした幼い日々。日雇い仕事で疲れたお母さんを夕方迎えに行き、神社の石段にしゃがんで、一日の話を聞いてもらっているとき、母も子も心が青空で澄み渡り、最も幸せだった。この場面は何度聞いても、私の心にも青空が広がる。
 保育園の保母さんが弟妹を迎えに行く運之助少年をそっと呼んで、おやつの小さな包みを渡してくれ、ひざまづいて目線をあわせ「がんばるのよ」とひと言言ってくれた。どんなにそのひと言が少年を励ましたことだろう。
 誕生日は母が運之助少年を座らせ、「あんたの命には、たくさんの無念の思いで亡くなった人の命が託されているのだよ。」と生命の意味を語り聞かせる日だった。
 夜間定時制高校、夜間大学と働きながら学んで、夜間中学の教師となる。貧しさ・戦争・家族の病気、様々な困難を生き、学びたい気持にかられ、夜間中学にやってくる人達。一つの文字を習う時の感動の場面。「目に涙だから、泪(なみだ)なんだね。」と心から納得する。
 そして、「時速40キロで走る車は、何時間で80キロ先の目的地に着くか」という問題に、「まあ、たいがい2時間半だな。」とゆずらない労働者おじさん生徒。「信号はあるし、渋滞はあるし、2時間でいったら事故をおこすよ。」と主張する場面の話。笑って聴きながらも、学ぶってただ知識を覚えることじゃない、生きることの真剣勝負がかかっていることなんだ、と気づかされた。
 夜間中学はキラキラ輝くいのちの学びの場。こんな学びの場があることを伝え続けてきた松崎運之助さん。知らないでいた人達に伝えるということは、とても大切な仕事なのだ、とあらためて思った。それが山田洋次監督の『学校』の映画につながり、全国の人々に夜間中学の存在を知らせ、学ぶことの意味を問いかけることになった。(松浦幸子)


<総会交流会 主役はカメラマン!>
レストランでの交流会は大入り満員。昨日から準備した手作りのごちそう、とり肉の手作りハム、ひじきの和風ハンバーグ、新玉ねぎのスープ煮、五目焼きそば、野菜のピクルス、ジャコと大根葉のまぜご飯、じゃがいもの風味揚げ、ブルスケッタ、デザートはミルク寒天。みんな優しい味だから、おいしいおいしいとお客様もメンバーも次々と平らげてくれて気持ちいい。
新潟から参加の黒岩鉄子さんは「手作りで、どれをとってもおいしく、健康にいいものばかり。会費が1000円ではかなりの赤字だったのではと心配になりました。」とブログに書いておられた。
十分に食べたあとは、みんな目をキラキラ輝かせて私たちの一芸披露に集中してくれた。「田邊順一物語」はカメラマンの田邊さんを主役にした寸劇で、笑いと涙で大喝采。箱で作ったカメラを抱えた若き日の順一青年は斉藤君、新妻役はきよみさん。熟年になった妻役はあい子さん。「クッキングハウスのみんなの笑顔の写真集をぜひつくって下さい。そうしたら元気になれます。」と頼む松浦幸子役は和子さん。ずっと空から見守っている守護天使は有光さん。いつものSSTやサイコドラマできたえているので、役割を取るのはすぐに自然に出来てしまう。この劇を写真に取っているのは本物の田邊順一さん。
総会の議案書の準備などどうしても現実にこなさなくてはならない固い仕事をしながら、どんな出し物にしようかなと寸劇のシナリオを考えている。そのことがとても楽しいから、いろんな大変なことを乗り切ってこれているのだな、と気づいた。どんなときでも遊び心を持ってしなやかにやっていきたい。
ティールームの出しものトーンチャイムは『見上げてごらん夜の星を』。「このうたは夜間中学の授業の最後に、毎晩歌っていました。」と松崎運之助さんが喜んでくださり、みんなで大合唱となった。被災地のみなさんに思いを寄せながらうたった。
次はクッキングバンドのみなさんがそれぞれ楽器を手に持ち『海に向かって』のうた。楽器を持つようになってからみんな明るくなり、バンドが活気に満ちてきた。アンコールにこたえて『大きな古時計』、きよみさんが手ぬぐいを時計の振り子にして動かない古時計役。あまりにもじっと動かないので見ているだけでもおかしくて、スペシャルゲストの佐々木愛さんも楽しそうに笑っていた。
フィナーレは参加者みんなが大きな円になり手をつなぎ、『不思議なレストラン』をうたう。
困難な現実が山積みしているけど、今日はみんなと一緒で楽しかったから大丈夫。笑顔で乗り切っていこうと思った。(松浦幸子)


7回目 スウさんのピースウォーク
〜地球のキルトと共に〜


 毎年4月になると、石川県津幡町で「紅茶の時間」をもう30年近く続けている水野スウさんがやってきてくれる。今こそ、水野スウさんがメッセージを発信し続けている「いのみら通信」の名称の元々の由来、「いのちの未来に原発はいらない通信」を話していただきたいとお願いした。
 スウさんは大きな地球のキルトを持ってきてくれた。著書“まわれかざぐるま”にこのキルトの物語が書かれている。「原発はいらない」と母親も子どももみんな一緒にキルトを作ったのだった。太古の時代から今の時代までの地球の歴史がひと針ひと針、すべての生命を愛しながら縫いこまれている。原発は、燃やしたあとの放射能のうんこ(・・・)が生命に、地球環境に長年月影響を与えてしまうのだと、わかりやすく話してくれる。「人に伝えていくために、クッキングハウスでSSTを学んだことが本当に役に立ちました。私メッセージで、誰かを責めるのではなく、自分の気持を語っていくことが、原発という複雑な問題を伝えていくのに、どんなに大事か気づいたのです。」とスウさん。まさにSSTを自身のコミュニケーションの有効な道具にして実践している。誰も責めていないから、安心して心開いて聴くことができる。
 私達はいつの間にか、原発の安全神話をすりこまれている。「原発のことは心配。でも(・・)原発がない(・・)と(・)」というデモナイト自動思考になっている。この考え方を変えることができるだろうか。もっと柔軟な発想になるために、感性も理論も磨いていかなくては「感(・)と理(・)が大事」もキーワードだった。最後に「単語な感想」と、小さな折り紙に最も心に残ったことを一言書いて、集めて発表。いつもながらスウさんの発想は楽しい。
 翌日の夜、4月22日(金)のハッピーアワーで、アンコール講演。小さい子ども達を連れたお母さん達も熱心に聞いてくれた。スウさんのうた「For the first time in my Life」はささやくように、「今日の日ははじめて、風も空もちがってみえる。あなたと一緒で。」とうたってもらうと、いっぱいの愛をプレゼントされた、満たされた思いになってくる。
 この日、クッキングハウスで会えて、スウさんの話を集中して聴けるのも、大震災のことを思うと奇跡に近いことなのだ。(松浦幸子)

スウさんから届いたブログより一部(今回の出前紅茶の話をまとめてくれています)
 私の○(まる)い頭で理解した、原爆と原発の関係、原発の仕組み。
多くの人が、原発はこわいけれど、ないとやっていけない、と何重にも思い込まされて来た、その根深い仕組み。テレビや新聞からは、本当に知りたいいのちの側にたった情報が、得られない仕組みや、日本で自然エネルギーがなかなかふえない仕組みについても。
こういった仕組みを知ることで、「こわい、でも(原発)ないと」の呪縛から、ほんの少しでも自由になって、これまでと違う角度から原発のこと、考えてもらえますように、と祈りにも近いきもちで語る。
この「でもないとチェンジ」に必要なのは、「感」と「理」だと私は思ってる。
 「感」は、不安や恐れ、怒りなどの感情、そして感性。
原発のどの場面にも、ヒバクシャがいること。差別のシステムの上に原発があること。プルトニウムの半減期24000年。50年近く原発を動かして来てて、放射能のウンコの最終処分地さえ未だ決まっていないこの国。それらの事実を知って、どのくらい想像力が働くかどうか。
「理」は、理性や道理や理論。仕組みを知ることだけでなく、多少は原発を巡る数字やデータ、世界での脱原発・自然エネルギーについて知ることも、また必要。でないとちょっとつっこまれただけで、「でもないと」にすぐ逆戻りしてしまうので。
↑(そのためのテキストブックが要るなら、田中優さんの「原発に頼らない社会へ(ランダムハウスジャパン)」が出たばかり。内容は、「ヤマダ電機で電機自動車を買おう」に、3・11以降のことを新たに書き加えたもので、その上、「ヤマダ−−」より安い1050円)
 感と理、それを持った上で、次に大事な、伝え方。どれだけ、「私メッセージ」で伝えられるか。20数年前のように、いいか、悪いかで、敵対しても始まらない。
 今、いのちの未来の大事な分岐点に立ってる。私もあなたも。東電の原発のあの現場に対して、自分じゃ何一つできなくても、未来に関わる一人になることは、誰にでもできる。自分がその一人になるんだって、自覚すれば。それを考えてもらうため、気づいてもらうための、今回の出前。
 正直言って、12年前に中垣さんといっしょに「東海村であの日、何が起こったのか」という冊子(藤田ゆうこうさんの講義録)を出して以来、原発について語ることは本当にひさしぶりだった。
今回の出前をきっかけに私なりの25年間の表をつくってみたら、ちょうどその12,3年前に、私はクッキングハウスの松浦さんに出逢い、以来、SSTとよばれるクッキングハウスでのコミュニケーションの学びにどんどん魅かれていき、調布に通うようになったのだった。
10年あまりの時を経て、今また原発を語らなきゃならない今の状況はすごく悲しい、そしてくやしい。でもこの日のクッキングハウスで、満員のお客様やメンバーさんやスタッフさんの前で語りながら、この10年間のSSTの学びや、コミュニケーションの練習の場である「ともの時間」での気づきを、語りの中で生かしている私がいることにも気づいたんだ。
原発を語る時、相手を非難したり責めたりする「あなたメッセージ」だったら、本当に伝えたいことは伝わらない、心に届かない。だから、「私メッセージ」を、心して、心して。そう思った時、そうか、巡り巡って、これまで学んできたことにちゃんと深い意味があったんだ、と納得できた。
話の中で、66年前、長崎浦上の病院で、原爆の患者さんたちの治療に当たった秋月辰一郎医師の食事療法のことにも少しふれた。天然の塩と味噌と玄米、かぼちゃやわかめのお味噌汁、甘いものはさけること、とくに白砂糖はよくないこと。
この組あわせ、レストラン・クッキングハウスの毎日のメニューとおんなじだね。このつらい経験から、あらためて、日本の伝統的醸造発酵食品を使った食事のよさが見直されていくといいなあ、と思う。

〈旅・スペシャルレポート〉
 笠木透さん、雑花塾と行く素晴しき朝鮮文化と歌の旅

 
 大災害のあと、日本中が冷えきり経済活動も循環しなくなっている。こんな時だから、少しでも経済が回っていくのに協力したい。何よりも元気を出したいと、3泊4日ソウル限定に縮小した旅が実現した。仁川空港に着き、あさりうどん(洗面器のように大きい器に、あさりとカニとうどんが山盛り)をいただきながら、ガイドの金さん(女性)が話してくれたことが胸を打った。
「日本の大使館の前はいつも抗議行動が多いのに、3月11日以来は毎日、日本が早く復興しますようにと、祈りの行動でみんなが集まっていました。日本ではそのことが報道されていますか。」マスコミでは取り上げられないことを、この国に来たらわかった。本当にありがとう。韓国の人達が祈ってくれていたことがわかっただけで、この国のふところの深さを思うことができ、来てよかったと心から思った。
雨の中南山の安重根(アンジュングン)の記念館に。1909年、ハルピン駅で伊藤博文を暗殺し、処刑された人。朝鮮が日本の植民地になることに、命をかけて抵抗した人。母が「国のために闘ったのだから、毅然として死ぬように」と、絹の白いカタビラを縫って贈ったという。処刑になる10分前の写真は穏やかで、しかも気品に満ちている。
獄中で書いたという安重根の書が実にいい。「一日不読書口中生荊棘」。学ぶことを求め続けた青年のかわきが出ていて、しばらく書の前から動けなかった。安重根の「東洋平和論」は完成しなかったが、現在高い評価でみられているという。

〈パコダ公園へ〉
1919年3.1独立運動の発祥の地であるパコダ公園に行く。日本の植民地になることに反対し、学生や市民が非暴力で万歳を叫んで始まった運動のレリーフが、パコダ公園にある。非暴力の独立運動のルーツとして、キング牧師やインドのガンジーに大きな影響を与え、世界に広がっていった。
当時の日本はこの運動に大弾圧を加え、名前も奪い(創氏改名)、ハングル語を使うことを禁止、心の文化も奪っていき、徹底した植民地支配をすすめていった。

〈尹東柱の母校延世大学へ〉
1943年京都の同志社大学留学中、禁止されていた朝鮮語で詩を書いたことから投獄され、1945年2月福岡刑務所で27才の若い生涯を終えた詩人の尹(ユン)東柱(ドンジュ)。友人の預かっていた手作りの詩集「空と風と星と詩」が1948年に出版され、韓国の国民的詩人として愛されている。
今回の旅で最も嬉しかったのは、尹東柱の母校延世大学を訪ねることができたことだ。1938年から1941年まで過した当時の寄宿舎が記念館として残されている。れんがづくりの落ちついた建物。尹東柱の詩碑があり、ガイドの金さんにハングル語で読んでもらい、私が日本語訳を読ませてもらった。春の芽ぶきの木々の中から、尹東柱が詩を口ずさみながら歩いてくるような気がした。

〈旅仲間で笠木透・増田康記コンサート〉
最後の夜、レストランの庭で小さなコンサート。笠木透さんは、日本の植民地時代朝鮮の人達が抵抗の歌としてうたっていた歌を発掘紹介してきている。「故郷の春」「わが国の花」「他郷暮らし」「故郷を思う」など、すぐに口ずさめる、国を思う歌ばかり。故郷の野や山や川や花をうたいながら、解放と独立を願う思いがせつないほどに深くこめられている。隣の国の韓国。悲しい歴史のあやまちをきちんと償い、これからはもっともっと知り合って互いの文化を尊敬しあえるいい友達になっていきたい。充実した旅だった。(松浦幸子)

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