宮沢賢治の研究者であり、教育者の三上満さん同行のサハリンへの旅は、宮沢賢治が旅した道を訪ねる旅でもあり、サハリンの歴史を学ぶ旅でもあった。
北海道稚内から夏の青い海の水平線にサハリンは低く浮かんで見えた。フェリーに乗って5時間半の旅がまた楽しい。北海道が段々遠ざかっていったと思ったら、船は揺れ、また静かな湾の内に入り、そのうちサハリン島がだんだんくっきりと近づいてくる。海の風に吹かれて座っていると、気持も広がってきて雑念が去っていく。恐いと思っていた船旅がすっかり楽しくなった。
日露戦争で日本の領土となった樺太。木材、石炭、にしんの漁場と豊富な資源があり、「宝の島」として人々が樺太に渡り、たくさんのドラマがあった。三浦綾子の「天北原野」をくり返し読んでいたので、コルサコフ(大泊)港に主人公の貴乃さんが着物姿で立っているような気になってしまうが、終戦後はロシアに返還されたので、船から降りると、硬い表情の税関の人が待っていた。
宮沢賢治は妹トシを病気で亡くし、傷心を抱いて樺太を旅した。(1923年7月31日〜8月12日)。大泊港−豊原−栄浜−白鳥湖−鈴谷平原と旅しながら、妹トシは「大きな白い鳥になった」と心象風景を詩に表現する、「オホーツク挽歌」、「樺太鉄道」、「鈴谷平原」、「噴火湾(ノクターン)」。私達の旅は宮沢賢治のたどったコースを電車に乗り、雨の栄浜ではまなすの花を眺め、昆布の打ち上げられた海岸を散歩しながら、賢治の思いを感じる旅でもあった。えぞにゅうの白い花、柳蘭、釣鐘草、こけももなど、賢治の詩の中の花を捜し歩いた。新しい生き方を捜している気持になった。
さて戦後、たくさんの日本人がやっと引き揚げてきたが、残された日本人もいた。何よりも無理矢理連れていかれ働かされたのに、朝鮮の人々は祖国に帰ることができず、サハリンにとどまることになった。墓地を訪ねると、たくさんの朝鮮の方々の写真が墓石に刻まれ、悲しみを訴えているようで胸がしめつけられた。
夕食交流会では「日本人会」のみなさんと交流の機会をつくっていただいた。終戦当時は青年や娘だったみなさんも、歳をとり、苦労のしわがいっぱい刻まれている。多弁に語るわけではないが、語れない悲しみがいっぱいあったことだろう。
87歳のキクエさんは夫が朝鮮人であったため、自分一人だけ日本に帰るなんてことはできなかった、と穏やかな美しい表情で語って下さった。コルホーズ(国営農場)でロシア人もみんな一緒に睡眠時間も削って働き通した。年金も差別なく同じで、教育費も医療費も無料だったが、ペレストロイカで国の体制が変わり、物価が上がり、年金では食べていけなくなった。
この夏、日本に帰国することを決めたのだという。キクエさんは「誰か故郷を思わざる」を歌いながら涙をぬぐい、私達もこらえきれなくなって泣いた。海を越えれば5時間半でいける日本なのに、何と遠い国だったことだろう。この歌をうたいながら、サハリンで戦後60年懸命に働きながら生きてこられたのだ。うたは訴えないではいられない思いがこみあげた時、本当のうたになり、聴く人の心に飛び込んでくる。戦争が人の心に残した傷はまだ癒えてはいない。
サハリン最後の夜。ウクライナレストランでの夕食会に日本人会のみなさんと共に、キクエさんも来て下さった。三上満さんが手をとり、思い出のうたを輪になってうたう。「カチューシャ」は娘が学校で習ってきたのを聴いて覚えたという。うたいながら労働し、子育てをした楽しい時もあったのだと思う。日本に帰国されたら、あたたかく包んであげたい。決して孤独にさせてはいけないと思った。
国の体制に翻弄されてきた歴史があるが、今サハリンは108の民族が暮らす「共生の島」として、未来への可能性と希望をいっぱいもっている。また訪ねてみたい。そして、本当に近い国になったらどんないいいことだろう。(松浦幸子)
家族の力を借りて、
当事者が安心できるサポート体制をつくろう
第6回 父親学習会〜体験を語り合って学ぶ〜報告
ひとりぼっちをなくそう。家族は一人で頑張らないで!
父親学習会の参加資格は「父親」であることだけ。父親が安心して本音を語り合う会がどうしても必要とスタートした。一緒にそれぞれが抱えている苦労を語り合うことから、思いを共有しあい、学んでいきたい。父親という立場は苦しい面がある。どうしても理論や理屈が先になってしまい、気持をうまく伝えられない。父親の協力が得られないと、母親からは責められたりもする。父親も当事者の回復を応援したいと思っているし、寄り添って頑張っている母親の労もねぎらってあげたいと思っているが、うまく表現できなかったり。
講師は一回目からずっと、ルーテル学院大学教授で精神科医の増野肇先生にお願いしている。増野先生は1960年から現在まで半世紀、精神科医療に貢献されてきた。日本で初めての開放病棟での試みからスタートされ、森田療法やサイコドラマの第一人者だ。
「当事者はストレスにもろいところがあるから、うまくストレスコントロールできる環境をつくっていけばいい。家族も感情を落ち着かせ、当事者に安心感を贈り続けると、いいサポート体制ができていく。バリ島のようなゆとりのある環境があればいい。クッキングハウスも東京の中のバリ島だ。バリ島的なところをあちこちにつくっていけるといいのだが」とあたたかいまなざしで話をして下さった。
父親のそれぞれの悩みに増野先生の答えるアドバイスにはユーモアがあり、大変な状況に向きあっているのだけれど思わず笑い出してしまう。時には、万歳のかけ合いのようになったりする。回を重ねるごとに、父親達も伸び伸びと語り、いい雰囲気になってきた。
私達も父親達を応援したいと、ビール付きのおいしい昼食を用意し(サラダそうめん、枝豆ごはん、しょうが焼き、チーズケーキ、コーヒー)、みんなで接待。テーブルごとに話が盛り上がっていく。こんな父親教室に、市民活動助成金「えんがわファンド」の申請が通ったことは嬉しいことだ。学びあうことが市民活動として認めてもらえたことは、隠さないで堂々と生きていっていいということだから。
☆心に残った増野先生のアドバイスから
Q:すぐに疲れたと言い休みたがるのは怠けているのか、病気だからなのか、判断基準に困る。
増野:それは病気だからです。事情があるから休んでいるのです。一見怠けているようにみえる病気なのです。しかし、何かきっかけがあれば動けます。うまくいったことを少しずつ増やしていって、できたことをほめるといい。いい例外をみつけていくのです。(「例外の法則」として話して下さった。)
Q:息子の父への反発が不潔恐怖となってあらわれたり、父の言動に厳しい。
増野:父への反応は、これで不安を防いでいるのだから、1つのプロセスとして認めてあげること。当事者が病気であるかどうかより、「どうしたら幸せになれるか」を中心に話すといい。息子の話す内容が妄想で本当かどうかが問題ではない。「それは大変だね」と傾聴したら本音がでてくる。「どっちがいいんだろうね」と一緒に考えるのがいい。
(松浦幸子)
家族SST報告 当事者と兄弟姉妹の関係
8月のテーマ「当事者と兄弟姉妹の関係」は家族が困難に直面しながら精一杯生きてきた歴史を振り返ることにもなりました。「あの時、もう少し兄や姉の気持を大事にしてあげればよかった。でも当事者の方に手がかかりすぎて、わかってくれているはず、と甘えてしまった。」
「当事者がいることで苦しんだことが、人間としての成長になり、心やさしい大人になっていくと松浦さんが話してくれて、本当にそうなってほしいと思いました。」
シェアリングは涙なしには語れなくなってしまった。家族ということをこんなに深く心でとらえた時間はなかった。家族SSTは心を分かち合えるいい場になってきた。
〈兄弟・姉妹とのかかわりで大切にしたいこと〉
1.親は隠さずに、当事者の病気や障害の状態や回復していく経過を、他の兄弟姉妹にも伝える。
2.そのために家族も病気を理解するために、学ぶことが大切。家族の学ぶ会でどんなことが参考になったかなどを伝えていくこと。
3.家族のカウンセリングを通して、兄弟・姉妹が自身の心の負担になっていることを、話していくことも大切。(ファミリーカウンセラーをもつこと)
4.兄弟・姉妹を比較しない。その言動をつつしむ。
5.兄弟・姉妹の会など、グループで話し合う場に参加する。同じ悩みを語り合うことで、勇気がもらえる。
6.協力してくれて、ありがたく思っている気持ちを、折あるごとに伝えていく。
7.時々ごほうび。ちょっとしたおでかけや・小旅行などでリフレッシュさせてあげること。
8.家族だけでは解決できないのだから、隠さない生き方、家族を開いていくことの方向性をもっていること。
9.病気の当事者がいることで、悩んだことや、苦しんだことが、人間として成長につながっていくことや、ものごとを深く考え、心優しい大人に育っていくと信じること。(松浦幸子)